05.16.21:04
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06.01.22:22
「人間が好きかい?」
そう問われればYESと答えよう。
「人が好きかい?」と問うならばNOと答えよう。
この二つの言葉に明確な違いはない。ニュアンスというのか、イメージというのか。深くは気にしないで欲しい。
哲学するのは好きだが、哲学はあまり好まない。そういったものと似ている。
おそらく僕の方が世界が狭いという前提において、僕は親の考え方が気に入らない。
己がプライドと国を秤にかけて、プライドが、体裁が大事だという元首なんかさっさと消えればいい。
国民が困窮していると知りながら、己が地位・血筋・国家を守ろうとしている元首なんかさっさと消えればいい。
そんな風に、どこかの北の国を考える。
人という生き物は喧嘩の治め方は知っているのに、戦争の治め方は知らない。
原理は同じようなものだというのに、少し大きくなると途端に違うものに見えてしまう。
戦争ほど大きくなくてもいい。例を今思いつかないが、この現象は僕も体感するところである。
心の平穏の求め方を知っている人は世の中に大勢いるのに、それを知ろうとする人は少ない。
多くの人が本によって伝えようとしているのに、本当にそれを求めるべき人はそれを求めていない。
あれほど本屋に通っていて、本を探すアンテナがなかったのは僕が求めていなかったから。
しかしここ数ヶ月でどれほどの本が増えただろう。そのおかげで、どれだけ僕の心は軽くなっただろう。
「求めよ、さらば与えられん。」
この言葉の意味するところを勘違いしている人はどれくらいいるのだろうか。かくいう僕もそうだったが。
「求め、探せよ。そしたらいつの間にか見つかるからさ。」
しかも、探し始めてそんなに経たないうちに。
「思いやりがない」と誰かに語る人に、思いやりを見た記憶はない。
僕に思いやりがないと言い放った父親が、病気の母親に怒鳴る姿を見ている。
だから僕は、愛や思いやりは言葉で語れば語るほど薄っぺらく思うのである。
「愛してる」「好きだ」と言いながら、欲のために嫌だと言っている体を玩ぶ。
快楽は人格を破壊する。常々言っているが。
快楽を求めるあまり、人格崩壊を起こし、生活できなくなった人がどれだけいるだろう。
性交も、クスリも、僕は好まない。酒は、ある種自罰的なのでそれはそれで好まない。
人間的な、精神の快楽を僕は求める。それはあまりに単純で身近な場所にある。
あまりに近すぎるゆえに、気がついている人はどれほどいるだろう。
気がついている人が多ければ、本や歌には書かれていないはずだ。なぜなら知っていることを知る必要がないからだ。
社会の波は無情だ。人間的な感覚をあまりにも早すぎる時間によって気づかせてくれないのだから。
「感覚」や「感情」は、感じた瞬間にその人にとって事実となる。
それを否定することは、何人たりともできはしない。
否定できる人がいるとすれば、「水は冷えれば氷になる」という事実を否定できる人だと思っている。
これを読んでいるあなたは、どっちの人だろうか?
愛とは何か。それは100人いれば100人とも違う回答をするだろう。
もしくは幾人かはそれぞれ伝え合い、いくつかの集団でいくつかの答えを有するだろう。
僕にとって愛とはするものではない、もとい、出来るものではない。
僕は誰かに愛をあげることは出来ない。あげることが出来るのは心だけだ。
もしその心を渡した誰かの中に受け取ってもらえたら、その時に初めて愛が生まれると思っている。
漢字には成り立ちというものがある。正確なものとはおそらく異なるだろうが、上記の意味が分からなければ「心」「受」「愛」という字をペンで改めて書いてみるといい。僕の思う「愛」がきっと伝わると思う。
ただし、この答えもまた一つの例であって、押し付けるものではない。考えるのは、自由だ。
僕は幸せである。心をもらっているのだから。
「人が好きかい?」と問うならばNOと答えよう。
この二つの言葉に明確な違いはない。ニュアンスというのか、イメージというのか。深くは気にしないで欲しい。
哲学するのは好きだが、哲学はあまり好まない。そういったものと似ている。
おそらく僕の方が世界が狭いという前提において、僕は親の考え方が気に入らない。
己がプライドと国を秤にかけて、プライドが、体裁が大事だという元首なんかさっさと消えればいい。
国民が困窮していると知りながら、己が地位・血筋・国家を守ろうとしている元首なんかさっさと消えればいい。
そんな風に、どこかの北の国を考える。
人という生き物は喧嘩の治め方は知っているのに、戦争の治め方は知らない。
原理は同じようなものだというのに、少し大きくなると途端に違うものに見えてしまう。
戦争ほど大きくなくてもいい。例を今思いつかないが、この現象は僕も体感するところである。
心の平穏の求め方を知っている人は世の中に大勢いるのに、それを知ろうとする人は少ない。
多くの人が本によって伝えようとしているのに、本当にそれを求めるべき人はそれを求めていない。
あれほど本屋に通っていて、本を探すアンテナがなかったのは僕が求めていなかったから。
しかしここ数ヶ月でどれほどの本が増えただろう。そのおかげで、どれだけ僕の心は軽くなっただろう。
「求めよ、さらば与えられん。」
この言葉の意味するところを勘違いしている人はどれくらいいるのだろうか。かくいう僕もそうだったが。
「求め、探せよ。そしたらいつの間にか見つかるからさ。」
しかも、探し始めてそんなに経たないうちに。
「思いやりがない」と誰かに語る人に、思いやりを見た記憶はない。
僕に思いやりがないと言い放った父親が、病気の母親に怒鳴る姿を見ている。
だから僕は、愛や思いやりは言葉で語れば語るほど薄っぺらく思うのである。
「愛してる」「好きだ」と言いながら、欲のために嫌だと言っている体を玩ぶ。
快楽は人格を破壊する。常々言っているが。
快楽を求めるあまり、人格崩壊を起こし、生活できなくなった人がどれだけいるだろう。
性交も、クスリも、僕は好まない。酒は、ある種自罰的なのでそれはそれで好まない。
人間的な、精神の快楽を僕は求める。それはあまりに単純で身近な場所にある。
あまりに近すぎるゆえに、気がついている人はどれほどいるだろう。
気がついている人が多ければ、本や歌には書かれていないはずだ。なぜなら知っていることを知る必要がないからだ。
社会の波は無情だ。人間的な感覚をあまりにも早すぎる時間によって気づかせてくれないのだから。
「感覚」や「感情」は、感じた瞬間にその人にとって事実となる。
それを否定することは、何人たりともできはしない。
否定できる人がいるとすれば、「水は冷えれば氷になる」という事実を否定できる人だと思っている。
これを読んでいるあなたは、どっちの人だろうか?
愛とは何か。それは100人いれば100人とも違う回答をするだろう。
もしくは幾人かはそれぞれ伝え合い、いくつかの集団でいくつかの答えを有するだろう。
僕にとって愛とはするものではない、もとい、出来るものではない。
僕は誰かに愛をあげることは出来ない。あげることが出来るのは心だけだ。
もしその心を渡した誰かの中に受け取ってもらえたら、その時に初めて愛が生まれると思っている。
漢字には成り立ちというものがある。正確なものとはおそらく異なるだろうが、上記の意味が分からなければ「心」「受」「愛」という字をペンで改めて書いてみるといい。僕の思う「愛」がきっと伝わると思う。
ただし、この答えもまた一つの例であって、押し付けるものではない。考えるのは、自由だ。
僕は幸せである。心をもらっているのだから。
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